稚拙な文字が、並ぶ。
 それはお世辞にも綺麗とは形容し難いものだった。恐ろしく顔立ちが整った男はにやにやと性根ひん曲がった笑いをその容顔に浮かべていた。馬鹿にするでもなく、単に面白そうに意地悪い笑みを浮かべていたのでまだマシだったが、これが前者だったら俺はぶん殴っているところだ、生憎とこいつに対して気が長いわけでもない。
 「お前自分で言ってるだけあるな、なかなか……うん。」
 「なかなか、何だよ。お前に言われなくとも下手糞だって重々承知してる。」
 というか、下手糞、どころではなく書けない。日常的な会話に問題は無くとも、日本語の字書きは得意じゃない。不器用だから、たとえ慣れ親しんだ台湾華語でも字は上手とは言えないと思う。自分でももう諦めた。天性の不器用者だ、俺は。なんとなく使えているのは箸の使い方だけかもしれない。魚の骨もまともに取れないけど。あの淫売女が叩き込んだだけある。バイオレンスにバイオレンスな食事を送っていたことを思い出せば、今はあちらこちらで下品な言葉が飛び交っていようと平和なもんだ。日常茶飯事の殴る蹴るは目の前の王様ことレイジと居ればまずないわけだし。
 紙の上に乗せられた可哀想な形の字を眺めて、辞書やら餓鬼の書き方本なんかと睨めっこする。駄目だ。バランスがめちゃくちゃだ。きっと絵のセンスがある奴は、文字を書くときもそれと同じような感覚で模写するように書くのだろう。そういうセンスを持ち合わせていれば形として見ることで楽に上達するだろうが、俺はそうも行かない。何せ天性の不器用者だ。
 「これじゃあお前にゴーストライターは頼めないなあ。」
 「誰がお前のライターになんかなるかよ。んなもんやる羽目になったら俺は書くぞ、『二度と送ってこないでください。』」
 「誰からも来なくなったらお前がこれまで来ていたはずの分を書いて俺に送ってくれ。」
 「意味がわかんねえよ。大体なんで俺が書くことになってんだよ、仕舞いにゃ怒るぞ。」
 何が可笑しいのか、ははは、と笑ってレイジは俺の前にあった紙をひらりと取って、俺から紙へと視点を変えた。そこに並んでいるのは手本と同じようになるにはまだ遠い下手糞で汚い字。諦めてどうでも良くなったそれには、もはや羞恥心すらなかった。俺はぼうっとレイジを見る。日本人の餓鬼と俺と、どっちが上手いんだろう。まあどうせ俺じゃないだろう。
「ロンが書いてくれたらすげー嬉しいんだけどなー……。」
 どっかに意識を飛ばしていた俺は物凄い勢いで我が身へと戻ってきた。まるで頭を殴られたかのような気分だった。レイジが愛おしそうに俺の書いた字を指でなぞる、失礼なことに俺はぞっとした。何故そんな顔を出来るのかさっぱりわからない。俺には同性愛の気質が無いからレイジが何をどうしても解らない。解らない、はずだ。勢いで何かをしてしまうなんてことが無いとは言い切れないが。何せ俺は勢いだけで生きてきたようなもんだ。
 「まあ強制は出来ねえけど。あ、そうだこれちょーだい。」
 レイジが練習用紙を俺に見せながら言う。
 「は?そんなん何になんだよ。練習用紙、ただの紙切れだぞ?」
 「いーのいーの、はい貰い!これ一生の宝にすんだ。」
 「……は?もうほんと意味わかんねえよお前……。」
 レイジは入手した俺の練習用紙を手に嬉しそうにし、まさかのまさかでそれに数回キスをした。
 溜息。それしか出来ない。こいつはどこまでアホで幸せな奴なんだ、俺みたいな常識ぶっこいてる奴がどうかしてるように見られる東京プリズンでもこんなやつはいない。
 「ロンが出てっても俺は絶対お前を忘れない。毎日これ眺める、んで枕の下に敷いて寝る、ロンが夢に出てくるように。」
 110年。
 それがレイジの懲役だ。俺は20年だからあっというまだ、こいつにしたら。100年なんて娑婆に出られるわけがないのだ、西の道化は更に上を行くが。俺は30そこそこで此処を出られる。勿論生きていたらの話だ。入ったら生きては出られない、それが東京プリズン。リンチやレイプが横行する地獄。
 俺が地獄を味わうのは凱なんかが居るせいだ。レイジは殺してやろうか、なんて言うけれど、絶対にそれは無い。認めない。死んだら、いなくなったら清々するけれど。
 「毎日毎日、元気にやってるかな、飯ちゃんと食ってるかなって考えて、幸せになってるといいなって祈る。」
 何言ってるんだ、こいつは。レイジの言葉はまだまだ、続く。
 朝起きたら一番に思い出す。誰だか知らない女と一緒になってガキが出来て楽しく暮らしてるかもしれない、もしかしたら大金持ちになって天狗になってるかもな、夢の無い話だけど俺とおんなじように暮らしてるかも、顔洗ったり鏡見る前に先ずお前のことを考える。ブラックワークでリングに上がってるときに思い出したら百人力だろうな。ああ、飯食うときお前隣に居ないんだよなあ、そしたらしょうがないからサムライとかキーストアとか探してみっかな、でもどっちも可愛かないよな。やっぱロンが居なくなったらつまんねえなあ。
 「……寂しい?」
 はっとした。思わぬ言葉が勝手に出てきた。誰の口から?紛れもなく俺の口から。
 寂しい、だなんて一体俺は何を聞いているんだ、馬鹿だ、これじゃあ寂しがって欲しいと言っているようなもんだ。レイジは無敵のブラックワークの覇者でいつも飄々としてわけの解らない笑みを浮かべてる変な奴だ。でもいつも俺のことを助けてくれる、いつも半々の俺をほっとかないで見ていてくれる、言いたくないけど最高のダチだ。
 「……寂しいよ。寂しいどころじゃない、もう日々の生活が絶望的?生きてけない。」
 「嘘くさいんだよお前。」
 「どこがだよ、200字以内で説明しろよ。」
 「ふざけんなよ。」
 ふざけるな。いくら馬鹿な俺だって、知ってる。いつまでもいつまでも、人間は他人を覚えてやしないんだ。別に家族でも恋人でもない、遠い親戚でも。
 「俺が居なくなっても好みに合った適当な奴追っかけまわしていつもふざけた顔して最強で王様やってて当然のように本で囚人薙ぎ倒してって、そんで、……俺の事なんか結局忘れるんだ。」
 俺の事なんか、忘れるんだ。毎日毎日、俺のことを考える?嘘に決まってる。お袋は俺の事なんか忘れたくて忘れたくてしょうがないんだ、邪魔だったんだ、消えたらいいような奴だったんだ、タジマなんか陰湿な嫌がらせ食らわせに息荒げてるし凱にはぶん殴られるし半々だって言われるしどうせ皆俺が嫌いなんだ知ってるよああ今更だ。皆俺を嫌ってる。

 忘れたがってるんだ。

 忘れられてしまったら、その人間は一体何処へ行ったらいいのだろう。はなから家には帰れないし、娑婆で女つくったわけじゃないし、いっそ俺の居場所はこの東京プリズン。
 「綺麗さっぱり忘れて次の同房になった奴とよろしくやるんだ、知ってる、お前が尻軽だってことくらいとっくに知ってる、たまに半々の話題が出てああそんな奴も居たなって思うことはあっても毎日思い出したりしないだって俺は、」
 「いい加減にしろ。」
 臓器に響く低音。
 目は笑っていなくても顔だけはいつも笑っていたレイジが、恐ろしいほどに無表情だった。無表情で俺を見ている、怖い、怖い?レイジが?
 「俺は絶対にお前を忘れないし半々だとかお前を馬鹿にしてる奴が居たら取っちめる。殺すのはお前が嫌がるからやめとくけど。」
 珍しく真面目な声色に目線を逸らすことが出来なかった。後半は冗談めかした調子になっていたが、それでもいつもと違う。笑ってない、いつもへらへらしてるのに今、何で?笑ってるのに、いつも、笑ってる、笑え、笑えよ。
 「俺はお前が大事だから、お前が何言ったって忘れない。忘れられない。」
 アルツハイマーにかかっても意地で覚えててやる絶対忘れたりしないから。レイジのその例えがあほすぎて笑いたくなった。病気にかかってまで覚えてるってどんだけ執着してんだよそれ。有り得ない。
 病にかかった人間はどこから忘れていくんだろうか。どうでもいい一度見た限りの人間なんてものの数分で忘れてしまうが、大事な人はどうなんだろう。たまに会うくらいの親戚の婆さんを忘れるのが先なんだろうか。それとも一番身近な人間だろうか。
 考えてる間もレイジはじっと俺を見つめていた。無表情で。それもどっちかっていうと怒気の混じった無表情。
 「やめろよ、そんなおっかねえ顔……。」
 「もうあんなこと言わないって約束するなら。」
 「……わぁったよもう言わないから笑ってくれよ!」
 怖いんだよいつも笑ってんのに表情が無いと。心の中で呟いて口には出さない。レイジに怖いなんて言ってやらない。意地でもお前なんか全然怖かねえって唇が動くだろう。
 レイジはふっと表情を緩めて紙を畳んでポケットに入れ、俺の耳元に唇を寄せる。ぎょっとしてすぐ平手を食らわせようと思ったがレイジのほうが一足先だった。吐息と共に甘く掠れた声。
 「世界で一番愛してる。」
 反抗しようとした腕は痺れたように虚空で停止、下ろされる。顔が熱い。真っ赤、レイジが耳元でせせら笑ったので本気で顔を潰してやろうかと思ったが今度は腕を掴まれて叶わなかった。完全に負けてる。
 力もやる気も失った俺に、レイジが満面の笑みを湛える。

 「愛してるよ、ロン。」

 ああ、ほら、この笑顔だ。俺が見たかったのは。




――― 下手糞な字から愛の囁きに行き着くまで


脱稿(2006年11月19日)