「だからどうしてそうなるんだ。」
 盛大な溜息と共に、ずり落ちてきた眼鏡のブリッジを押し上げる。僕は苛々していた。そう、物凄く。
 ここ十数分、僕はサムライとどうしようもない口論を繰り広げ続けている。どうしようもない、いやそんなことはあるはずがない、IQ180の鍵屋崎直がどうしたら"どうしようもない"なんて言葉を使うに至るんだ。待て、落ち着け、考えろ。少々思考回路が脱線したようだ。
 「それだけは絶対に譲らん。」
 「いい加減にしろ。ふざけているのか?僕が困惑している姿を見て楽しんでいるのか?君は本当に理解しがたい精神の持ち主だな、一体何が言いたいんだ。簡潔に答えろ、時間が惜しい。」
 一体僕にどうしろっていうんだ。まるでサムライの母親の気分だった。駄々を捏ねる子供に手を焼かされる母親。僕はこんな頑固な子供は要らない。
 「お前が心配だと言っているんだ、直。もし不逞の輩に襲われでもしたら……。」
 問題はこれだった。
 今から十数分前、僕は大事な用事があるから房を空けると彼に伝えた。僕はサムライにこう切り出した。
 「僕は今からある重要な私用がある。絶対についてくるな、命令だ。」
 ここまでは至って普通だ。何ということもない、いつもどおりの全くもって普通の会話が成り立つはずだ。まさかサムライがこっそり後をつけて事の次第を盗み見たり盗聴したりするとは思えないが、念には念をと命令まで下した。
 「何をしに行く。」
 迂闊だった、というか寧ろ自分の失態に愕然とした。
 サムライは何をしにいくのかと訊いた。当たり前だ、そんな明らかに怪しげな私用を見す見す逃すものか何を考えていたんだ僕は。ついてくるな?なんて如何わしい。人間として恥ずべき大失態だ。自分で明かしてどうする。
 「……それは言えないが別に心配するようなことじゃない。相手はロンだ。」
 法螺吹きめ。自分を責めるも仕方があるまい、本当に用があるのはレイジだった。
 レイジだと解っていないにせよ、サムライの"不逞の輩"発言は彼に失礼だ。まあ残念ながら間違ってはいないから特に何があるわけでもないが。
 そんなことはどうでもいいが、レイジだと明かせばサムライが余計なことをすると目に見えていた。以前レイジが悪ふざけで僕にキスマークをつけかけたのを根に持っているらしく、朝食を取る際にレイジと一緒になったサムライが一人険悪な雰囲気を醸し出していた。
 そういうわけで僕は信用に足るポジションにいるであろうロンを適当に引っ張り出してきたわけだが。
 「ならば俺も行こう。あそこにはレイジが居る。」
 とんだ読み違いだったらしい。
 サムライという男はレイジに関連付けられるもの全てから僕を守るつもりらしい。なんて恥ずかしいんだ帯刀貢。
 「君は僕の保護者なのか?違うだろう、だったらとやかく言われる筋合いはない。いつから母親気取りだったんだ?とんだ独占欲だ。僕は僕のやりたいようにやらせてもらう。」
 段々と脱線してきた。本題を見失ってはならない。それもこれもサムライがくだらないことを言っているからだ、一体僕からいくら時間を奪うつもりだ貴様。
 「俺はお前が好きだから言っているのだ。ひとりで出て行くなど、お前に何かあったらと心休まらない。」
 「いつまでも文句を言うな、貴様は小姑か!そんなに心配なら眠っていろ意識を飛ばせ時代錯誤のサムラ、イ、……め?」
 もういい加減にしてさっさとレイジとの用を済ませたい。一応あんな軽薄な低脳男でも予定というものがある、相当な時間をオーバーしているじゃないか。あの気まぐれ男がいつ房で寝始めないとも限らない。そうしたら僕はどうしたら良いんだ?扉の前で待ちぼうけか?ロンが居てもそれはそれで困るから、ロンが席を外す時間帯を指定したというのに。重大な用事なのだ、下手したら僕のプライドが全壊しかねないほどの!
 ……いや、待て待て待て、今サムライは"好き"と言ったか?
 「…………。」
 台詞を言い終えるまでにそこまで考えると、放心した。
 なんだこのアナクロニズムも甚だしいサムライが、よくそんな恥ずかしいことを、プライドというものがないのか貴様、ついに同性愛に走ったのか貴様!絶叫したい。
 「よくもそんなことが言えるな貴様!」
 「好きだから好きだと言ったまでだ。」
 何の恥ずかしげもなく、帯刀貢は言ってのけた。ありえない、頬が紅潮していくのが自分でも解った。
 僕にどうしろというんだまさか俺も言ったんだからとかそういう意味不明な理由をこじつけて僕にそんなみっともないことをしろと言う訳あるまい一体全体何が目的なんだ何が主旨なんだ10文字以内で答えてみろ帯刀貢!
 「……本当に理解しがたい!僕はもう行く!」
 レイジのところへ、私用のために。前もって準備しておいた荷物を小脇に抱え、足音荒く鉄扉に向かい勢いよく開いて閉じる。大音響。房に取り残されたのはサムライのみ。
 いかにも不機嫌に衛生のなっていない廊下を足早に進む。小脇に抱えたのは哲学書、医学書、―――プラスその2冊の間に挟まれた漫画。
 そうだ、非常に不本意だが僕はこの漫画を読んだ。レイジが薦めに薦めた"少女漫画"を。奴は言った、今後を考えて読んでくれ、これで恋愛を勉強してくれ、ときめきを覚えてくれ。どんな嫌がらせだ。
 兎に角何の勉強にもならなかったこの漫画を僕はレイジに即刻返さなければならないのだ。読むのも恥ずかしい漫画だった。くさい、くさすぎる。
 ―――嫌なことに、さっきのサムライは、この漫画の登場人物にそっくりだった。
 今僕の顔が熱いのは、サムライにときめいたからじゃ、決してない。心臓が高鳴るのは、そういうわじゃない。そんなことが、あるはずない。ありえないんだ。
 そういうわけじゃ、ないんだ。

 ―――愛しいわけが、ないんだ。





――― 好きだから好きと言っただけだ


脱稿(2006年12月26日)