些細なことが原因で、馬鹿馬鹿しい抗争が起こるのは東京プリズンでは今に始まったことではない。
 そして今揉め事を起こしかけているのは、IQ180の天才たるこの鍵屋崎直と、2000人殺しの西の道化ヨンイルだった。
 「君の読みでは矛盾が生じると言っている!179ページを開いてその節穴の眼でよく見てみろ!」
 「せやから直ちゃん、そこはもっと深くをやなあ、」
 当然、漫画の話である。
 天才である僕が一体全体何をどう間違えばこの男と暴力的な争いを起こすというのだ。どう考えても体力的にヨンイルには劣るし、力でも負けている。
 どちらにせよヨンイルは僕のことを手塚仲間だと言っているのだ、まず暴力は振るわないだろうとは思っている。期待を裏切るなよ、と内心呟き、溜息をついた。
 「まあこれはもういい、君の言い分も30%くらいは可能性がある。次の議題に移れ。」
 これ以上ヒートアップしては穏やかじゃないオーラを発しながら図書室より踵を返すだろうと予測して、自分の事ながら心が狭いと苦笑する。あれは譲れない点なのだ、70%は。
 ヨンイルが漫画を片手に話のネタを唸って脳味噌から搾り出しているのを横目に、図書室全体を見渡す。下品な会話に華を咲かせ、同様に品の無い笑い声を上げる囚人たち。下半身にしか興味が無いのならここから出て行って勝手に行え、卑しい低脳の姿など見たくはないし声も聞きたくない。本への冒涜だ。
 眉間に皺寄っとるで、とヨンイルに指摘されて、馬鹿らしい観察は幕を閉じた。どうやらネタを発掘したらしい。
 「2つめの話に移る。直ちゃん、サムライのことどう思う?」
 仰々しい振る舞いで言った後に、いつもの調子でヨンイルが問うた。唐突過ぎる2つめの議題、サムライをどう思う、と。何を躊躇う必要がある、と堂々たる姿勢で口を開く。
 「不潔だ。毎日髪を洗え、あの無精髭は剃るなり何とかしろ、爪の垢までよく落とせ、それから、」
 「解った、もうええ。」
 ずらりと浮かんできたことを、脳裏にサムライを思い浮かべながら並べると、ヨンイルが徐々に表情を崩し始めて仕舞いに止めに入った。何だ、貴様が聞いたから態々天才が答えてやったのだろう、何故止める。
 訝る僕を他所に、どう続けるべきかとゴーグルに触れて悩むヨンイル。意味不明だ、この男は一体何が知りたかったんだ。サムライと何の関係がある。
 「どういう答えが欲しかったんだ、貴様。」
 「そういう感じの話とちゃう、好きか嫌いか、気持ちの問題や。」
 溜息をついて言ったヨンイルは、手近な漫画を手にとってぺらぺらページを捲り、飽きたように置く。
 僕がサムライに抱いている気持ちをヨンイルは聞きたかったらしいが、えてして彼はサムライに好意を抱いているのだろうか。いや、まさか。あの寡黙だが不潔な男にヨンイルが惹かれるとは到底思えない。
 とりあえず、愚問だ。
 「……嫌いじゃない。」
 「好きなんか。」
 「そうは言っていないだろう、好きでもない。」
 「ふーむ、曖昧やな。」
 ヨンイルが顎に手を当ててそれらしく考え込む。奴の思考回路は謎だが、僕にとっても手塚を語れる唯一の人物だ。力量を考えても敵に回したくはない。従って邪険にするのは程ほどに抑えることとしていた。まあ、サムライが居れば多少はなんとかなってもヨンイルは西のトップだ。
 「それで、何なんだこの話の趣旨は。」
 訳がわからないのにはうんざりだった。早くしろとばかりに腕を組み、溜息を漏らして如何にもそれらしくしつつ、ヨンイルを見遣る。
 「別に。……あんま気ィないんやったら、間入れるんとちゃうか、と。」
 そうか。
 さらり、音量こそ小さいが、自然に出てきたヨンイルの言葉を、こちらもまたさらりと受け流すところだった。反応しようにも流しそうになるほど感情の波は小さく、大げさなことはできなかった。
 「……それで。」
 あまりに動揺が少なくこれ以上考えもまとまらなかったので、とりあえず先を促してみる。人任せだ。まさか本当にサムライに好意を持っているとは思わなかった。信じられないような、しかしそれほど興味もないような。とりあえず生きていくうえで全く必要のないものだということは理解できた。他人の色恋に興味は無い。
 漫画と戯れていたヨンイルが真面目な顔になって、僕の方を見る。黒いゴーグルに隠されることなく外気に晒された鋭い目が。
 「好きや。」
 3文字が脳内で踊った。だから何なのだ。
 そんなにあの不潔な男が好きか。ならば本人に直接言えばいいじゃないか。僕に言うな、僕に。幾ら天才といえどその意思を叶えるほどの夢のような機械は作れない。他人の恋のキューピッドになれというのは頼る相手が間違っているんじゃないか。
 「……だから何なんだ。そういうことはサムライ本人に言ってくれ。」
 眉間にこれでもかというくらい皺を寄せて、不快感を露にする。まったく、どうしてこの鍵屋崎直がこんなくだらない話に付き合ってやらなくてはならないのだ。
 溜息をつくと、しんみりした顔のヨンイルも同時に溜息をついた。いい加減にしてくれ。
 「……はあ……堪忍してや直ちゃん……冗談やないでコレ……。」
 ぽつりぽつりとヨンイルが情けなく呟き、ゴーグルを外し手に持って弄った。落胆した様子のヨンイルを見て自分の見当違いが発覚した。思わず目を丸くする。ああ、食い違い。
 どうやら彼は、僕に言っていたらしい、と。
 「な、だったら始めからそう言え!貴様が目的格を明確に述べなかったのが悪い!」
 だから訳の解らない勘違いをしたままその3文字を終わらせてしまったのだ!そうだ貴様が悪い!
 完全な八つ当たりである。よく考えても見ろ、サムライより僕の方が共有する時間が多い、趣味も漫画に限ってあうし、僕のほうがずっと清潔感があるじゃないか。当たり前だ。目の前に僕とサムライがいたらどっちを抱きたいだろう、そうだ僕に決まっている。思い出したくもないが売春班の経験もある。
 ああ、待て、大分滅茶苦茶な話になっているじゃないか。落ち着け、鍵屋崎直。
 「……直ちゃん、俺範疇にないんやろか。」
 西の道化ともあろう者がしゅんとして言葉を吐き出した。なんだ、これは。僕が悪いとでもいうのか。悪くない、悪くないぞ、僕は。ヨンイルが勝手に落ち込んでいるだけで、……何を考えているんだ、鍵屋崎直。認めろ、ほんの少し僕が悪い。
 元気の無い人間を励ますのは、得意じゃない。何を言えばいいのか、どうして良いのか解らないのだ。こんなとき恵が相手だったら、すらすら言葉が出てくるのに。恵が相手だったら、幾らでも頑張れるのに。
 「…………。」
 解らない。
 ヨンイルのことは嫌いじゃない。まともにブラックジャックを語れるのはこの道化しかいない。どちらかといえば、好きだ。……好きだ?僕はヨンイルが好きなのか?サムライは、『好きでも、嫌いでもない』のに、ヨンイルは『好き』なのか?つまり、それはなんだ、僕はそういうことなのか?ヨンイルと同じ事を思っているということなのか?まさか。そんな馬鹿な。
 脳が沸騰する。
 もう訳がわからない。つまりどういうことなんだ、自覚がなかっただけということなのだろうか、いやしかしそんな馬鹿な。誰よりも手を貸してくれるサムライを他所に僕は漫画おたくのヨンイルが好きだというのか?なんて薄情な。いや、意味がわからない、落ち着け。
 「なあ、直ちゃん……どうなんや?」
 なんてしみったれた声を出しているんだ貴様、それでも西のトップか。一喝したいところだが、それほど僕の頭も回転してくれなかった。落ち着くんだ、調子を崩されるんじゃない。
 こういう人間にはどう対応したら良いのだろう。嫌いじゃなくて、気を落としている人間には。
 自然に体が動くままに任せる。机を挟んだ向かいにいるしゅんとして机に伸びているヨンイルに溜息をつく。手を机について、首をヨンイルの方へ伸ばす。
 唇がヨンイルの額を掠める。
 「っえ、な、なん、」
 ヨンイルががばっと勢いよく身体を起こし、驚きに目を見開いて頬を紅潮させて訳の解らない言葉を発する。西の道化が動揺するな!僕が恥ずかしくなるだろう!この天才が、いきなり額にキスをした、だなんて。恵にだってそんな慰め方はしなかったというのに!
 兎にも角にも恥ずかしい。顔が熱くなる。信じられるか、この僕があんな。そんな馬鹿な。こんな漫画おたくに。さっさとこの場を去りたくなったので、早急に質問の答えを返す。
 「……興味がないことはない。」
 「っ、な、直ちゃ、」
 ヨンイルの口から紡がれるその名前を聞き終わる前に踵を返して早足に出口を目指す。馬鹿だ、僕は大馬鹿者だ。大失態だ。自然に任せたのには失敗だったかもしれない、返ってきたのは羞恥と謎めいた気持ちだけだった。
 なんだ、この胸が熱くなるような感覚は。

 「直ちゃーん、おおきにー!!」
 扉を潜る瞬間に、ヨンイルの歓喜の声が聞こえた。どうやら成功だったらしい。





――― それはただの好奇心に過ぎなかった


脱稿(2007年4月3日) * 匿名様リクエスト