奪われてしまうのが怖いというのは、一言に幼稚と片付けられるほど、簡単なことなのだろうか。

 暗くて何も見えない部屋に俺は居た。
 お世辞にも良い香りとは言えやしない饐えた悪臭の中、ひっそりと何の音もしない。
 どこかに似ていた。
 似ている、ではなく、そのものだったかもしれない。あの、生死をかけた聴覚訓練の、糞尿垂れ流しの不衛生な場所。
 ―――何でこんなとこに居るんだ、俺は。
 なんとなく覚醒しない、ぼうっとした意識のままふと考えた。自分は確か東京プリズンとかいう地獄の監獄に放り込まれていたはずである。
 突然銃声が聞こえる。
 1、2、3、ああ、4発だ。
 だから何なのだ。別に今の俺には関係ない。刑務所じゃ質素としか言いようがないが、銃声を数えたり人の声を聞き取らなくても食事がもらえる。足を投げ出して壁に寄り掛かって座り、傍聴する。
 誰かがすすり泣く声が聞こえる。
 扉を叩く音が聞こえる。
 雰囲気から勝手に研ぎ澄まされた耳にはきつい、劈くような悲鳴が聞こえる。
 出してくれ此処から出してくれ、そう叫び泣く子供の声は、そういえば聞き覚えがある。ガキがたくさん泣いていた。五月蝿いくらいに。
 すすり泣きから始まった泣き声が段々と大きくなっていく。銃声が絶え間なく響く。なんだこれは。五月蝿い。
 そういえば俺も色々訓練したよなあ。空き瓶打ち落としたり銃組み立てたり分解したり。ああ、嫌なもんまで思い出すじゃんか、痛みに慣れる訓練とかほんっともうやめとけ何考えてんだ。
 ガキどもの泣き声は大きくなる。
 唸り声が聞こえる。
 五月蝿い。黙れ。黙れよ。
 「……っ」
 ―――気が付いたら、いつもの天井にいつものベッド、それに気持ち悪い汗と荒い呼吸。
 どうやら全部夢だったらしい。……現実をもとにしたあまりにリアルな。唸り声は考えてみれば自分のだったかもしれない。だったら不愉快ではあるが、自分に対して、起こしてくれて有難うと礼を言いたい。
 喉が渇いているが起き上がるのも億劫で水分補給は諦める。だらりとベッドの上に身を横たえて天井を見上げる。なんだか凄くロンの顔が見たい。
 こういうときに居てくれないと結構寂しいかもしれない、と薄っすら嗤い、ちらりとロンのベッドを見遣ると癖毛が跳ねていた。
 ロンがもしもあのベッドに居なかったら、今俺はどう思っただろう。もしも、それどころではなく俺の前から居なくなったら俺はどうなっているのだろう。そんなことを考えて、怖い、と思うのは、別に不思議なことじゃない。誰にも奪われてなるものか、というのも変な話じゃない。
 「あーあ……」
 粗末なベッドで眠る少年を愛おしいと、触れたいと、抱き締めたいと、そう思うのは、幸せな証拠なのだろうか。多分答えはイエス。そしてまた、奪われてしまうのに不安を抱くのも、恐らく幸せなことなのだろう。まだ、そこに子猫が眠っているうちなのだから。
 「地獄耳は辛いんだぜ」
 知ってるか、ロン。
 隣の隣のそのまた隣で豪快に鼾かいてるのが居るとか、寝相の悪さにベッドから転がり落ちてるのが居るとか、そんなのばかりじゃないんだ。結構色々、余計なことが聞こえるんだぜ。胸糞悪い、もう二度と聞きたくないと思っていた色んなことが。
 「なあ、ロン」
 そんなの幻聴に決まっていて、作り物に決まっていて、単なる夢だったはずなのに、気持ち良く眠りについていたはずなのに、目を覚ました頃にはじっとり嫌な汗をかいてまざまざと現実のことのように再び同じことがリフレインされる。
 目が冴えてしまって自分のベッドに居るのも気が乗らなくて、スニーカーに足を突っ込んでロンの寝台の横まで来ると、ロンの頬を人差し指でつついてちょっかいを出してみる。予想通り眉間に皺を寄せた不愉快そうな顔をしたので思わず笑う。多分第三者から見れば幸せな図に思えるだろう。
 ひやりと冷たい床に腰を下ろして、ロンの寝顔を観察する。まだまだあどけない。相変わらず腹を出して寝ていたので、捲れた服を直して、毛布を掛けなおしてやると、気持ち良さそうな微かな声が聞こえた。
 いつかこのベッドから、この空間から、俺の目の前から、ロンが居なくなってしまう日が来たら、どうなるのだろう。今まで取り戻してきたけれど、それがいつまでも続くなんてことは、単なる希望で、夢でしかない。
 もしもその日が来たら、自分は平常心を保っていられるのだろうか。いつもどおりに生活しているのだろうか。笑顔を浮かべていられるだろうか。本当の、笑顔を。
 「ロン、お前、出来ると思う?」
 自嘲気味に眠っているこどもに問う。駄目かもしれない。依存しきっている。でも、平常心とか、そういうののために奪われるのが怖いと思うわけじゃない。
 酷く子供っぽい話だと言われると思う。言葉を交わせないのが、会えないのが、触れられないのが、抱き締められないのが、怖いのだ。全部自らのメリットでしかない自分勝手なものだったが、それでも、今はそれしかないのだから。
 でもきっとまだ人生経験少ない俺よりも、ずっと年上の奴だって、そういうことを恐れているはずだ。それを幼稚と言って済ませるなんてことは、出来ないはずだ。―――ま、感情が欠落した奴はどうだか知らないけど。
 「居なくなるなよ」
 俺を置いてどこかへ行くなよ。ふらっと消えたら、誰かのところへ行ったら、もう俺は駄目だろうから。
 頼むから、裏切ってくれるな。
 ロンのまだ小さい手を両手に取って、祈るように左右の五指を折る。どうか、俺だけを見ていてくれるように。最後まで、ちゃんと水底から引っ張り上げてくれ。中途半端に、手を離さないでくれ。
 「……居なく、なるなよ」
 起こさないように、健やかな寝顔にそっと顔を近づける。藁束色の長い前髪がロンの寝顔に、さながら金の檻のようにかかる。閉じ込めてしまえたら、どれほど楽だろうか。そう思って自らへ嘲笑を向ける。俺のことだけ考えてればいいのに、なんてことを言っても、きっとあの野良猫は素直に頷いたりしないし、閉じ込めてしまったら、あの笑顔も言葉も、全部一緒に檻の中だ。
 「愛してる」
 そっと触れるだけのキスをする。
 檻の中の君はまだ目覚めない。





――― 漂泊


脱稿(2007年10月7日)