「なあ、良いだろキーストア」
 暴君は顔を歪めて言う。多分笑っているのであろうその顔は、元が良いだけに上手く出来ていた。頭のてっぺんから足の先まで、どこまでも均整の取れたその男は、言いながら長い指を僕の髪に潜らせる。暴君はこの髪の指通りのよさがお気に召したらしかった。何度も梳きながら、僕の答えを待っている。
 「何とか言えよ」
 どう答えたものか考えていれば、暴君は痺れを切らしたように眉間に皺を刻んで、指を通していた髪をその手で掴み、僕の顔を上げさせる。同時に視線も上がり、その先には酷薄な笑みがあった。
 「嫌だと言ったら?」
 反抗する気があって言ったわけではなく、純粋な質問だった。暴君は顔を顰める。
 何が良いのか嫌なのかというと、性交渉の話である。
 暴君の目を観察するようにして見ていると、彼は突然僕の髪を掴んでいた手を開いた。頭皮が引っ張られる感覚がなくなるが、じんとした熱が広がる。暴君はふっと僕から目を逸らして、
 「興ざめだな」
 と言った。目だけでなく体ごと逸らされて、暴君の顔が見えなくなる。どうせ端正な顔を暗く歪ませているだけだろう。明るい顔をしているわけがない。
 暴君はベッドへと乱暴に腰を下ろす。此処は僕の房だ。正確には、僕とサムライの、だが。サムライは今居ない。暗い房の中で暴君の動向を見守ると、彼は僕のベッドに腰を下ろすだけに留まらず、そこに寝転がった。シーツがそれに合わせて小さな皺を作る。誰がシーツを伸ばしたと思っている。舌打ちをしたくなったが、やめておくことにする。変に彼を刺激しない方が自らのためだし、基本的に僕は彼を放っていた。ただ、放ってはおけないこともあるので、
 「いつまで此処に居るつもりだ」
 暴君に問う。サムライは外に出ている。どこに行っているかなど知りもしないし、そんなことはどうだって良いが、いつ帰ってくるかだけは気がかりだった。もちろん此処に暴君が居るからだ。暴君がいつ戻るのか、聞かないわけにはいかないだろう。
 「冷てーな。折角会いに来たのに」
 「呼んだ覚えはないし、君が此処を出入りするのが誰かに知れて困るのは僕だ」
 眼鏡のブリッジを押し上げて、寝転がったままの暴君に言う。ただレイジが此処を訪ねてくるだけなら、そうまでならないものの、彼が暴君化していては何かと話の種になってしまう。当然、悪い噂しか立たない。
 「別に良いじゃん、スリリングで」
 僕が眉間に皺を寄せると、暴君は事も無げに言う。誰もそんな危機感を求めていない。心穏やかに過ごせればそれが一番に決まっている。僕は溜息をついて、「ふざけるな」と暴君の配慮のなさを一蹴する。扉の向こうで足音がばらばらとしている。こんな状況じゃ彼を追い出すに追い出せない。ますます眉根を寄せて、深く溜息をついた。暴君はそんな僕を笑う。愉快そうにではあるが、相変わらずその顔は歪んでいる。
 「だけどお前、好きだろ」
 暴君が歪んだ笑みで言う。何のことを言っているのか理解出来なくて、首を傾げる。暴君はこちらをにやにやと見ている。わけが解らない。僕が「何が」と問いかけようとすると、
 「っな、」
 急に世界が回った。
 「好きだろ、こういうの」
 暴君が笑う。美醜の入り混じった顔で、僕を見下ろす。―――見下ろす?
 「僕にそういう趣味はない」
 苦虫を噛み潰したような顔で、低い声で言う。僕はベッドの上に居た。暴君に跨られて、だ。世界が回ったと思ったら、どうやら腕を引っ張られて押し倒されたらしい。シーツの皺が、確実に増えていた。僕は今何をしているんだ?現実味があまり実感出来なかった。どうでも良いような気さえする。ただ、懸念事項が頭に浮かぶくらいは、した。
 房の外は、相変わらず足音が溢れている。人の声もまた然りだ。
 「嘘付け、見られるだけで感じる淫乱がよく言うぜ。ああ、これだけじゃ詰まんねえってか?どうせなら扉全開にして公開プレイにしてやろうか?」
 レイジが、暴君が、美しい目を細めてさも可笑しげに言う。反吐が出る。漸く小さな不快感が心の中に現れる。
 「悪趣味だな。君の頭は蛆でも沸いているのか?」
 不愉快そうな顔をしたまま、僕は暴君に問うた。すると暴君は更にすっと目を細めて、
 「殺していい?」
 口角を上げたまま、言った。酷薄な笑みが、こちらに向けられている。けれども僕は何の恐怖も感じなかった。本当に殺しそうな空気ではなかったからだ。ただの暴君の戯れなのだ。
 「僕を抱いて君になんの利益がある」
 溜息混じりに言えば、暴君は、
 「寂しさでも埋められるんじゃねーの」
 冗談めかしたことを言った。言ったのに、彼は本当に寂しそうな顔をしているような気がした。きちんと全うできない冗談など言うな、この馬鹿が。暴君になった割に、本当に駄目な奴だ。まるで子供のようだった。その馬鹿に対して、更に溜息をつこうとすると、
 「さっさとおっぱじめようぜ」
 それをなかったことにするかのように、綺麗な顔に相変わらずの醜い表情を乗せて、暴君は言った。僕は同時に息を呑む。いつの間にか服が捲り上げられていて、暴君が愛撫を始めたからだ。裸の腹と暴君の手がじかに触れ合う。彼の手は熱かった。子供体温か?ますますもって馬鹿馬鹿しかった。
 「余計なこと考えんな」
 暴君が言う。命令だった。そのはずなのに、僕には強請っているようにしか聞こえなかった。申し分ない体格の彼が、とんでもなく子供に見える。暴君に触れられているのに、僕は冷静だった。余計なことだって考えるさ。望んでこんな状況に進んだわけではない。頭だけは、まともだった。そうこう考えていると、
 「っ」
 暴君が唐突に唇を奪う。噛み付く。嘘のように思考だけはクリアだ。されるがままになっているだけで、自分は何も応じてやっていないからだ。寂しいらしい暴君に、単なる情けで舌を使ってやる。暴君はそれを境にもっと巧みなキスを始める。少しずつ酸素が足りなくなる。思考もそれと同じに衰えてゆく。体温は知らぬ間に上昇していた。
 何をしているんだろうな、僕は?
 ぼんやりし始めた思考の片隅で、誰にともなく問い掛けた。暴君の長い指が、僕の身体を這い回っている。何かを探すように、愛撫している。形のないものを探すように、急いだ手付きで僕の身体を弄っている。熱が高まるの感じた。それを僕は止めはしなかった。抵抗など、しなかった。ただぼんやりと考えていた。
 ……僕は君の寂しさを、埋められるんだろうか。
 きっとそんな役は、ロンが一番お似合いで、僕が今暴君の下で善がり始めたのは何かの間違いだ。ロン、君は何をしているんだ?どこに居るんだ?いつまで僕を犯させる気だ?早くここへ乗り込んで来て、暴君を連れて行け。連れて行ってくれ。
 だって今、君の王様が、レイジが、寂しいって、言ってる。
 「レイ、ジ、……っ、」
 暴君、としか呼ばなかったはずの僕が彼の名を呼べば、暴君は目を見開いた。ああ、何で、と思う。
 この声は、届かなくてよかった。彼が目を見開いて、しっかり見てやるべきなのはロンで、聞いてやるべき声はロンのもので、心をとかしてやる役も、全部ロンであるべきなのだ。僕では、彼のさびしさを埋めてやれない。埋めてやるのは、ロンであるべきなのだ。
 暴君の行為が、激しさを増す。むきになっているようだった。寂しさを満たす温かさを、彼はまだ探している。ここにはないことに気付いて、愕然として、それでもまだ縋り付いている。
 「っレ、イジ、……ぅ、あっ、レイ、」
 現実から逃げないで欲しかった。
 僕を嬲るその手は、とても温かい。この手は、ロンの手をもう一度握ってやれる。抱き締めてやれる。こんなところでありもしない温もりを探して、ぜんぶをだめにしてはいけないのだ。
 喘ぐ自分を恥ずかしいとも、情けないとも、思わなかった。ただ、悲しいような気がした。
 未だ見えないものを探し続ける彼を、見上げる。暴君は、もっと悲しそうな顔をしていた。だったら、もうやめてしまえ。辛いのなら、本当に必要なものを追いかければいい。
 思考がぼんやりする。熱い。でも、流されてしまうわけにはいかなかった。僕は、彼の友達だったはずだ。友達だった、はずなのだ。
 「ぁ、っく、っレイジ、」
 暴君の手を握る。名前を呼ぶ。何度だって呼んでやる。彼の頭を抱き寄せる。暴君が息を呑んだのが、わかる。僕はぼんやりする思考を、とにかく繋ぎとめて、彼に遠く及ばない貧弱な身体で抱き締める。
 ああ、なんで。意味もない言葉が、浮かんでは消える。
 ロン、君の知らないところで、彼はその美しい指を僕に這わせている。彼は今、君の知らないことをしている。これは裏切りか?彼が僕を抱くのは、裏切りなのか。
 ……いや、暴君から彼を取り戻そうとして抱かれる僕が、裏切っているのだ。抱かれた僕が裏切り者だ。彼に罪はないのだ。それでいい。だから、彼が帰って来たときには、許してやってくれ。許してやってくれ、ロン。彼は今も、君の温もりを必要としているはずだ。
 「温かくなくて、すまない」
 彼を抱き締めたまま、言う。暴君は抵抗しなかった。独特な色をしているその髪を撫でる。僕の鼓動は、君が欲しいものじゃない。君が欲するものは、手を伸ばせばいつだって掴めるはずだ。
 ロン、もうすぐ君に、君の王様を返してやる。
 「……なんで、」
 暴君が、震えた声で小さく呟いた。彼は今度こそ、ここには何もないことを知ったのだ。
 「っなんでだよ、キーストア、」
 暴君には、何も与えてやれない。情けのキスと、それなりの喘ぎ声以外、何もやらない。暴君は戦慄いた声を出した。絶望的な響きだった。僕はただ抱き締めるしか、出来なかった。レイジ、君が帰って来たなら、僕は友人として、君を迎え入れる。ほんのささやかな温かさを与えてやれる。
 「思い出してくれ、レイジ」
 戻って来い、レイジ。
 きみは、ひとりじゃない。





――― 麗しい指先は、君の知らないことをする


脱稿(2008年6月21日)